Voice of the Beloved

The EDGE Interview with Charlottémarie

by Tim Miejan

 

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人の声こそ、人間が再生し得る最も古代の音である。シャルロットマリーは、芸術への深い教養を持ったルネサンス的女性ヴォーカリストだ。宗教音楽の流れに敬意を払い、シャルロットマリーは魂でチャンティングする。彼女は、歌や詩の朗読はもちろん、自ら作曲やレコーディングも行う多彩なパフォーマーだ。

 

シャルロットマリーは、ヒーリングと神聖なアートを舞台芸術の中へと融合する。それは、古代の教えと音楽、ヴェーダ、チベット、中国や中東の伝統的サウンドとそのチャントからインスパイアされたものだ。サンスクリット語、アラビア語、アラム語、ラテン語、ペルシャ語、スペイン語、そして英語で彼女は歌い、チャンティングを行う。20年以上に渡って、彼女は6つの“ワールド・ビート・オペラ”の台本の執筆と作曲を行い、ソロとアンサンブルの両方のイベントの創作とパフォーマンスを行ってきた。


EDGEは、ミネソタ州
セントポール出身のシャルロットマリーとのインタビューを行い、彼女とサウンドの驚くべき旅と、生と死についてのお話を伺った。

 

 

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サウンドに対する感謝はいつ頃始まったんですか?

シャルロットマリー 生まれたその日からだと思います。私には沢山の弟と妹がいます。私は11人姉弟の長女として生まれました。子供の頃、弟が腹痛になった時や、妹が痙攣を起こした時、私はよくサウンドの力を使ったものです。ちょっと面白い音をたてていたんですよ。私たち姉弟は、シオン山教会のそばで育ちました。私はチャントを聴きに、よく*シナゴーグまでこっそり山を下りて行きました。隠れてそこに行くのが、とても好きだったんです。そしてチャンティング──教会の中で響くチャント、シナゴーグの中で聴くチャントが大好きでした。

 

*シナゴーグ : ユダヤ教会の礼拝堂

 

それから、私が高校生の時、ミネソタ大学でひとりの*スワミに会いました。そしてそのスワミは、私にサンスクリット語で*『バガヴァッド・ギーター』を教え始めました。私はサンスクリットの呼吸とリズムを愛していました。サンスクリットを発音すること、そしてそれを発音することによって呼び起こされる意識の状態が大好きだったんです。

 

*スワミ : ヒンドゥー教の聖者・学者の敬称

*『バガヴァッド・ギーター』 : Bhagavad Gita:神の歌。インドの哲学詩篇

 

それから、私はひどい自動車事故に遭ってしまい、脳を損傷し、車の運転が不可能となりました。この事故により内分泌系とホルモンバランスに変調をきたし、私のすべてに影響を及ぼしました。この時より私はハワイへと移り住みました。そして、そこで私はある中国人の鍼師と出会い、彼から古代中国のサウンド・システムを教わりました──そして、それがすべてを癒してくれたのです。

 

私のサウンドの旅のある部分は、教会やシナゴーグなど、神聖な環境の中での非常に多彩なバックグラウンドを持っています。つまり、チャントや音について深く掘り下げていくための多くの機会を与えられてきたんですね。この旅は、私自身の癒しのプロセスになりました。やがて、私は子供の本能によって多くのことを行ってきたことに気づきました。私のサウンドの旅は、その子供時代の体験に始まっていて、それ故に全く異なる次元へと発展したんです。

 

私は現在、ミネソタ大学で“コミュニオン・デ・エスピリット”(Communion D'Esprit)という、ある特殊なオペラを行っています。私はミネソタ大学の女性コーラスと一緒に活動しているんです。私たちは、全く異なった様々な文化的起源をもつチャントを行っています。私たちが行っていることすべての基礎となっている、あるサウンドの法則があるんです。私がその原理のトーンニングを行っていて、私が選んでいるチャントは、その意味だけではなく、ある共鳴をもっています。サンスクリット語がでてくることがあるでしょうし、ペルシャ語で歌うこともあります。ネイティブ・アメリカンやアフリカの伝統的手法なども統合していきます。そして、私はSonessic──“ソネシック”という、あるサウンド・ランゲージを共有していきたいのです。ソネシックは、一種の言語であり、非常に深い土台を持った音楽の理論です。そして、これが本質的に私たちが行おうとしているものなんです。

 

ソネシック?

シャルロットマリー ソネシックは、エッセンスとサウンドを組み合わせた語です──sonic essence──ソニック・エッセンスです。

 

最新アルバム「Voice of the Beloved」についてのお話をお伺いしたいのですが。〔本インタビューは2002年に収録されたものです〕

シャルロットマリー とても興奮しています。とっても変わっているので。まずスタジオに行って、チャントのみを行いました──ヴォーカルと詩の暗唱だけを。最初は、ヴォーカルだけのつもりだったんですよ。でも、後から音楽が必要だと感じました。それで、私はアリゾナ州セドナにいるボイド・シブレイ氏に連絡して、音楽を書いてもらいました。そのレコーディングは、大空と大地に抱かれるようでした。空と大地は一体になっていながら、自立して、それぞれ自身のエッセンスを持っていました。このアルバムはホントに変わっているんです。アルバムには、“ラプソディ・アンダー・ザ・ラベンダー・ムーン”という32分の曲が含まれています。2トラック目は、“ビフォー・タイム”というタイトルで、最初から終わりまで、すべてトーンニングの曲になっています。私は、この作品を「ヴァイブレーション・メディスン」と呼んでいます。

 

トーンニングの中で、私は一切のマントラ、シラブルを使用しないことを決めました。私は、ヴェーダ、中国、チベットのサウンド・システムを用いています。この種の性質のレコーディングの中で、このようなことを行うことは、人々が求めるものよりも、たぶんちょっとだけ深い意味があるのだと考えています。私は本当に、サウンドのコンセプトと、それが人に及ぼす深遠な作用を受け入れているんです。サウンドは、精神、肉体、感情、そしてスピリチュアル面、存在のすべての局面に影響を与えることができるのです・・・つまり、サウンドの力は、本当に広大なんです。

 

私たちの存在のすべてに影響する──

シャルロットマリー その通り。でも、すべての人がそれを受け入れる準備ができているというわけではありません。誰もがそれを扱えるわけではないんです。ハワイで、*カフナたちと働いているときに、私はそれを学びました。普通の人は、特殊なチャントはしませんし、人前である種のことは行わないものです。そして、私がインドを旅行していた時に同行していただいた、ある教師と話したときのことです。チャントを行い、サンスクリットを学びに行ったある場所で、彼はこう言ったんです。

 

「うん、それはいい考えだね。彼らは、確かにサンスクリットの記録を持っている。でも、サンスクリットから離れて何かをしたい場合──サンスクリットとは一味違った何かをしたいと思った場合、そのほうがヴェーダに何かちょっと手を加えたものよりも、面白いものになるに違いない」

 

そして、私はある特殊なサウンドがあることに気づいたんです。もっと普遍的で、たぶん、もっと人々の役に立つかもしれないサウンドの存在に。

 

*カフナ:Kahuna ハワイ先住民の祈祷師

 

チャントやトーンニングを行っているとき、神とのダイレクトな結びつきを感じているんですか?

シャルロットマリー もちろん。私は、週に五回、自分の“ワンウーマン・ショウ”を行って、神とのつながりを感じています。そして、そのような環境を創り出すことができたと思っています。それは身体を突き抜けるようで、信じられない感覚です。最近私は、500もの大学が参加したコンサートで、ソロのヴォーカリストとして招待されました。それは私にとってすごい励みとなり、本当に希望を与えてくれました。

 

私は少女たちに向かって──その聖歌隊には、大体70人くらいの少女がいたんですが──こう、言いました。

 

「今から25年くらい前に、私はR&Bやポップなんかは、もう歌わないと心に決めたの。自分の声は、天からの贈り物であると感じたから。この声を世のために使おうって。この想いから必然的に神聖な助け合いの関係が生まれた──つまり、誰もが皆、恩恵を受けることができるんです。私はそれだけに集中し続けたいの。それで、私はその類の音楽の歌は歌わないんです」

 

それから、私は彼女たちに説明しました。サウンドが身体の中でどのように作用するかについて。神経や脳、エネルギー・フィールド、磁界やDNAに与える効果についてです。彼女たち、ほとんど唖然とした様子でしたね。

 

それで、少女のひとりがこう言ったんです。

 

「フィーリングや、感情についてはどうなんですか?」

 

私は彼女に、こう答えました。

 

「フィーリングには、全く異なるヴァイブレーションがあるのよ。何かを心配しているヴァイブレーションと、ハートが開かれているのでは全然違うの。彼氏が私にああしたから、私はこうして、彼に自分のほうを見てもらおうとか。あなたはそんなことをしているんじゃない?」

 

現在公共の電波で流されているものによって、私たちの感情はすごく濃い状態になっているんです。

 

音楽は、エーテルから来ており、私たちを取り巻く目に見えないエネルギーの世界に計り知れない影響を与えています。これは信じられないくらい微妙なものなんですが、私たちは音楽からダイレクトに影響を受けているんです。私たちは、音の周りにいるだけで、音は私たちに影響を与えている。それから、私は少女たちにこう言いました。

 

「私は自分自身を小さく言うつもりはないわ。私たちは皆、音と音楽を通じて自分たちの生活に神性をもたらす力を持っているんです」

 

すると、少女たちは皆総立ちになって、私に喝采の拍手を送ってくれました。彼女たちは子供ですが、私の話を理解したのです。彼女たちは、聴けと言われた音楽を聞くのに、うんざりしていると言っていました。そこには、自分たちの存在の一部を鼓舞させるものが何も無いんです。スピリットの部分を駆り立てるものが。

 

あなたのコンサートや、CDを聴いている間にリスナーに勧めたいことはありますか?

シャルロットマリー そうですね。瞳を閉じて、自分自身を感じて欲しいです。何が起こっていて、何を経験しているのか耳を澄まして欲しい。旅の中の自分を感じて欲しいんです。それが、リスナーに私が提案することです。

 

多くの人は、その中深くに入ろうとしません。ただ、ここに来て、美しい音楽と声に耳を澄ますだけでいいんです。というのも、その少女たちは信じられないくらい、すばらしいミュージシャンなんですよ。私もよい演奏ができるように十分努めるつもりです。リスナーをもてなし、創造するために私はそこにいるんです。

 

自分の声に対する意志をもう少し聞かせてください。世界に贈り返したいものとは何なのでしょう?

シャルロットマリー 声以上のものですね。それは意識でしょうか。

 

つまり、魂を共有したいと

シャルロットマリー その通り。声に耳を澄ましているとき、声を通じて流れてくるあらゆるエネルギーを聞くことができるんです。

 

私は脳障害を伴う事故に遭ったと言いましたが、修道院に住んでいるとき、別の事故が私を襲いました。車にはねられたんです。それで、脚が・・・・辛い日々でした。僧侶たちは、私を病院から連れ出し、私たちは二つの訓練を行いました。それは早朝から深夜まで続くチャンティングでした。片足には腰から足首にかけてギプスを、もう一方の足には包帯を巻いて。これは、もうひとつの深遠なヒーリング体験でした。

 

憂鬱のようなトラウマの結果として起こったこの一連の出来事を通じて、私はこのプロセスの中で自分自身をより深く理解し、サウンドを使うことができるようになりました。思考の微妙なサウンドに気づくことができるようになったんです。そこからすべてが発展し、多くの異なったレベルに拡大していきました。

 

それまでの私の意図は、ただ自分の仕事だけに向けられていました。しかし、ヒーリング体験の結果として、真の仕事が分ったんです。サウンドはツールであり、自己発見には、プロセスが伴う──そう、このような気付きです。そして、私はこの真の仕事を行うようになりました。それは聴く人々にエネルギー的に作用します。ただそれを聴く、つまりヴァイブレーションを感じるだけでいいんです。音楽的には、作品全体がヒーリングアートであり、神聖な芸術であり、パフォーマンスであり、それが一体になったものなんです。でも、それぞれの文化や聖なる民族音楽やチャントの奥深くに入るとき、それは私にとって伝達の手段となります。基礎的な伝達のための媒体ですね。

 

私は、様々な文化の秘教的な側面である聖なる教えに携わってはいるけれど、私の旅はそこに共鳴──レゾナンスがあるという点において更なる深みをもっています。レゾナンスという単語を使いましたが、すべての原子は周波数を持っているんです──そして、この周波数は、そのサウンドに反応するすべての人々と共鳴します。つまり、ここにポイントがあります。文化の中に、聖なる書物の中に、神聖なチャントに中に、言語すら超越した、ある種のエッセンスのようなものが存在するんです。文化や、それを形成するすべてのものを超えたものです。そして、それが、ソネシックの全てです。私が音楽をもっていきたいのは、そこなんです。

 

なるほど、それでネイティブ・アメリカンのCDを聴いたとき、その中に入り込み、元気付けられ、彼らが何を言っていて、何を意図しているのか知らないのに、その音楽に反応できるというわけですね?

シャルロットマリー 全くその通りです。私は、西アフリカや南アフリカなど、異なった文化圏の人々と一緒に仕事をしています。観客たちの出身も、ハワイ、韓国、日本、アメリカ、インドなど、実に様々です。文化を超えた、それでいて定義不可能な本質的な何かがあるんです。でも、アメリカ人は、物事を理解し、知りたがるんですよね。だから、私はヴェーダでチャントを行うんです。それが何であるかを話して、少しずつ説明していくことにしています。

 

サウンドは、様々なレベルで作用します。他のいかなる知覚よりも早く神経を伝わるものは、サウンドだと私は思います。また別の事故でのことなんですが、私は足を誰かに轢かれたことがあります。車のバックシートから外に出ようとしていたところで事故に遭っちゃった。興味深いことなんですが、私はその事故のとき末端神経の躍動を感じました。そして、そのフィーリングに抵抗すれば、事態が悪化するだけだと感じたんです。それで私は、その鼓動が伝わるがままにしておかなければなりませんでした。

 

そのとき私と一緒にいた友人は、ヒーラーやマッサージ師だったんですが、みんな仰天してしまって。かなり、鬱血して出血していたものですから。でも、私はこう叫びました。「落ち着いて!私の足が癒されていくのを見ていましょう。何かエネルギーを感じる。意識の中で何かが起こっていて、何かを掴めそうなの。だから、足が癒されるのを見ていなくちゃ」

 

脳障害の原因となった交通事故で、車のフロントガラスを突き破ったとき、私は死の体験をしました。その体験の中で、私は自分の肉体をその外から見ました。そして、車から青い光が出ているのが見えたんです。前の夫の姿が見えました。そして私自身の姿や、友人の姿が──そして、私の一部は自分が死んでおり、皆が私を生き返らせようとしているのが分りました。で、私は彼らに言ったんですけどね。「私は大丈夫よ」って。

 

肉体に戻りたいか、このまま行くかかどうか私は尋ねられ、私は答えました。

 

「仕事がまだ終わっていない。私にはまだすべき仕事がある」

 

すると、私は肉体へと戻りました。

 

自分が体験したことは、本当にうまく説明できないのですが、雪を比喩として使えるかもしれません。高く昇っていくほどに、雪の結晶のかたまりがどんどん地上から遠くに離れて軽くなってゆき、そして何も無いところにいくの。そして、地上に向かって落ちていくほど、雪の密度がどんどん濃くなっていく感じ。その体験の中で、本当にそんな風に意識が見えたんですよ。私は悟ったんです。すごく微妙なレベルで私たちが物事を創造してるのを。そして、私たちは向かわなくてはいけないことを──すべてのものがどのように生み出されているかを理解する地点に。自然のエレメントがどのような結びつきをもっているかを私は掴み取り、クリエイションの完璧なタペストリーが見えたんです。本当にすごかった。

 

意識の進化から見て、私たちは自分たちの経験の中でやっとサウンドのパワーに気づき始めた──サウンドの本当の意味を理解し始めたに過ぎないと思っていますか?

シャルロットマリー 始まったとは思っていません。やっと意識をサウンドに向け始め、その効果について気づき始めたばかりじゃないでしょうか。サウンドの力は、かなり前から知られてはいましたが、ツールとしては使われてこなかったと私は思っているんです。たとえば、ヒーリングやエネルギー的変容のソースや、そういった性質のツールとしてです。

 

でも、アメリカの文化では、社会環境や人々の生活の中で、別の方法を私たちの精神の発達の手段として用いてきました。今のところは、コンピュータの普及に伴い、より視覚的な情報が重要視されているように私は感じます。脳の別の部分が使われて、活性化されているんですね。サウンドは、まだ端のほうに追いやられているんです。

 

それに対して、インドに行くと、音がいたるところに溢れています。たとえば、寺院や街の通りや家庭の中に。サウンドは音楽の中で発生します。アフリカも同じですね。サウンドと歌は、日々の生活の一部なんです。ドラムの調べやチャントなど、多くの音が日々の営みから生まれます──葬儀の場ですら、人々は歌い、音を奏でるんです。

 

現代の文化は情報化時代に突入していて、その統合のプロセスはインドやアフリカのケースとは全く異なるものです。それでも、エネルギー的に進化している人々の数が増えているように私は感じています。サウンドが本当に信じられないくらいの力を持っていて、サウンドがエネルギーを形成するということを彼らは理解しかけているんです。私はまた、エネルギー的、磁気的なシフトがあると感じています。そしてそのシフトが起こるとき、意識のエネルギーが更に精妙になって、日々の生活の中で知覚がもっと鮮やかになっていくと思います。さしあたっては、そのシフトを起こすのは、コンピュータとインフォメーションです。

 

その死の過程の中で、サウンドの役割の多くを学んだのですね?

シャルロットマリー 昨日行ったパフォーマンスの中で私が使った詩に、こんな一節があります。

 

“見つめながら私をあなたのハートの内側へと連れていって。その世界で私を惑わせて。愛という名のその死を抱き締めて、私があなたを二度と忘れないように──”

 

私が知った、死についての本当に魅力なもののすべてがここにあります。あるレベルで生きるために、私たちは死ななくてはならないのです。変容のプロセスの一部です。でも、末期症状の、死につつある人々と一緒にいて、彼らを見ていると、意識が肉体にしがみついている様子が手に取るように分ります。そして、死が訪れたとき、非常に深い変化がおきるのです。

 

死は、手放すのと同じようなものなんでしょうか?

シャルロットマリー そう、手放すのと同じようなものですね。私は、ある婦人とその女性を介護していた方と一緒に、ハワイで数ヵ月間暮らしていたことがあります。婦人が私に望んだことは、チャントだけでした。私が行ったことというのは、アラビア語の素敵なチャントだけだったんです。それから次第に、私は彼女と同居するようになって、彼女に祈祷をささげるようになりました。彼女は、私の祈祷に反応しました。彼女は、人生の最後のステージにいたんです。彼女は歩くことができませんでした。しかし、彼女はビックリするくらい、すべてを知っていました。それでも、まだ肉体を手放さないという気持ちがあったんです。

 

死のプロセスには、二通りありますが、どちらにも、同じだけの恐怖と不安が付きまといます。

 

ひとつは、元気に生きていて、目の前に新しい人生が待っている場合です。スピリットは、新しい場所へと人を導くでしょう。ソウルとスピリットは一体となり、やがてスピリットにちょっとだけ波長が合うようになって、人生の目的の成就が始まります。タペストリーの一片へと変わるんです。神があなたになって欲しいと望んでいるタペストリーの一部へと。そして、物事が変化し始めます。そして、このプロセスは本当に恐ろしいものです。自分がそれまでやってきたようにはいかなくなるわけですから。

 

それと、物理的な死がありますね。私は二度、死の体験をしました。両方とも全く深遠な経験でした。その後に意識が深くなるんです。雪─ソースのかけらがもっているすべてが分るような感覚。意識とエネルギーが作用する方法が理解できるようになるんです。その時が来たのか、来ていないのかが分るようになるの。どうしてかと言うと、エネルギー的に神の意志を自分自身の人生に強いることはできないからです。たとえ、それが何であっても。その時は、神が決める。それをコントロールしようものなら、神の意志に逆らっていることが実際に分るんです。エネルギー的な抵抗行為が。

 

二回目の臨死体験はどんな感じだったんですか?

シャルロットマリー 二度目の臨死体験は、手術を受けているときに起こりました。最初の体験からだいたい一ヶ月ぐらい後のことです。医者が私を手術しているのが見えました、それから──突然、辺りが真っ暗になり、意識が飛んだんです。まるで、太陽の中にいるかのようでした。私はそこに座っていて、行くのか、去るのかの選択すら与えられていませんでした。そして、なんと、チャントが聞こえてきたんです。誰かが、何かをぼそぼそと話している声がしました。何も見えませんでしたが、音が確かに聞こえたんです。次に私が覚えているのは、手術台の上で意識を取り戻しているところでした。

 

太陽の中にいるようだとおっしゃいましたが、どんな感じなんです?まぶしかった?

シャルロットマリー まぶし過ぎて、何も見えませんでしたが、本当に太陽の中にいるようでしたよ。そこにいるときは、ただ驚いてしまって警戒してしまうのですが、とてつもなく素晴らしいんです。その外側に立って足元の太陽を見たとしたら、まぶし過ぎて全く何も見えないでしょうね。

 

光の中へ行った最初の死の体験は、ただ驚きの声を上げるだけでした。「うわぁー」って。トンネルの中を徐々に進んでいく感じです。それから光に圧倒されるんです。でも、二回目のときは、私は既に光の中に座っていました。すでにそこにいて、光の内側にいたんです。私には、自分が光の内側にいることが分っていて、さっき話したような声が聞こえたんですよ。

 

何を話しているのか、何か聞き取れましたか?

シャルロットマリー いいえ。でも、私はそれがエネルギーだったと感じました。そして、それがサウンドやチャンティングと多くの関係を持っていると感じたんです。なぜなら、その体験の後ですら、他の多くのものごとが変化したからです。

 

死のコンセプト自体が、本当に興味深いものです。インドでは、死のカラーは白です。中国の文化の中でも、白が死を意味しています。赤は生命の色です。

 

手放すことと、死が一体何なのかを理解することは、生きていく上で重要な部分です。そして、良い人生を歩むために、私たちは死に対して準備をしなくてはならないと私は感じています。そうお思いになりません?

 

死については、恐怖の側面もあると思うのですが。

シャルロットマリー そうですね。私たちはこう考えていると思います。死んでしまった人は永遠に去ってしまうと。私の末の弟がオムツ外しの訓練をしているときのことです。弟は、その体験を自分の一部が自分から去って、排水溝に流れていくものだと考えていて、トラウマを感じていました。すごいトラウマだったんです。このトラウマが、私の家族の細胞に染み付いたんじゃないかと考えていたのを覚えています。子供は、こういったことを理解していませんが、すべての子供がこの種のトラウマを経験するんですよ。

 

弟さんは、自分の一部を失ったと感じていたんですか?

シャルロットマリー ええ、そうです。弟の場合のように、深刻なトラウマ的なものであろうと、ただの一切れのケーキであろうと、それは彼らの心にすごい影響を及ぼしているんです。私は、死にゆく僧侶のそばにいた経験が何度かあります。死が本当に何を意味しているのかを、彼らが理解しているさまは優雅でしたよ。自分の人生のすべてに懸命に対峙しているんです。チベットの『死者の書』にはこう書かれています。死とは、ある部屋から別の部屋に歩いていくようなものだと。この言葉の意味を考えるに、私はしばしば、死と呼ばれるものとは、内側で起こっているものだと思うんです。生きるために、死ぬ──内的な死を経験するべきだと。生のための死を。




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謝辞:翻訳に快く許可を与えてくださったTim Miejan氏に心より感謝申し上げます。

 

Copyright (c) 2002 Tim Miejan & EDGE , Japanese Text shima 2006 協力: Kiss Aloha.com